泣いても笑っても日日是好日

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長崎原爆の史跡を訪ねて

今年3月に、長崎へ旅行に行きました。

 

今回は、その時の記事で語り切れなかった、平和公園を中心とする原爆の史跡についてご紹介したいと思います。

 

 

異国情緒満載の、魅力あふれる長崎の街についての記事はこちらをどうぞ。↓

 

gracedusoleil252525.hatenablog.com

 

gracedusoleil252525.hatenablog.com

 

 

 

 

さて、私の小学生の時は、夏休みは長崎原爆の日に合わせて出校日があり、原爆の話をいろいろと聞いたものでした。

 

最近は、どうなのでしょう。

 

 

平和公園を訪ねることは、わたしたち家族にとって、改めて戦争について考えるいい機会でした。

 

 

 

まず訪れたのが、原爆落下中心地公園です。

 

 

昭和20(1945)年11時2分、長崎に原爆が投下されました。

 

そもそもは、福岡県北九州市の小倉に投下予定だったのが、悪天候という事で長崎に投下されたのです。

原爆は、一瞬にして長崎の街を焦土と変えてしまいました。

 

 

 

この御影石は原爆落下中心地を表しています。

この時の死者73884人、負傷者74909人、半径4m以内の全焼戸数11574戸、全壊戸数1326戸、消失土地面積は6.7㎢とのことです。

(説明板より)

 

これは、御影石の横にある浦上天主堂の壁です。

浦上天主堂は明治28(1895)年から、信徒たちの献金と、労働奉仕活動を経て、大正3(1914)年に献堂式を上げた教会です。

 

浦上天主堂は、爆心地から北東約500メートルの位置にありました。

 

当時、東洋一を誇る大きな天主堂でしたが、原爆によりわずかな壁を残すのみで、破壊されました。

 

この壁の石像は、フランシスコ・ザビエルと信徒たちで、昭和33(1958)年に、新しい天主堂建設のためにこの地に移されました。

 

 

さて、この原爆落下中心地公園の隣に平和公園があります。

 

 

平和公園の入口

 

 

階段を上っていくこともできます。

 

階段を上るとすぐ目の前には、平和の泉があります。

 

 

平和の泉

石碑の言葉

………

のどが渇いてたまりませんでした

水にはあぶらのようなものが

      一面に浮いていました

どうしても水が欲しくて

とうとうあぶらの浮いたまま飲みました

    ーあの日のある少女の手記から

 

 

全身焼けただれた被爆者たちは、水を求めながら亡くなっていったそうです。

 

昭和44(1969)年、その被爆者たちの冥福を祈るため、又世界の恒久平和を祈るためにここに水をたたえた平和の泉を作ったとのこと。

 

平和の泉を通り過ぎると、平和公園を象徴する像である平和祈念像が見えます。

 

 

平和記念像への通路の脇に長崎の鐘があります。

 

長崎の鐘

 

当時、被爆地には魚雷や戦車などを作る多くの軍需工場があり、たくさんの人々が働らいていたそうです。

長崎の鐘は、昭和52(1977)年にここで亡くなった人々の冥福を祈るために県被爆者手帳友の会が会員から寄付を募り、制作したものとのこと。

 

通路の左右には、各国から平和への願いを込めて送られた様々なモニュメントも飾られています。

 

この写真の左は、旧ソビエト連邦から寄贈されたモニュメントで「平和」。

母親が子供を抱いた姿で、愛と平和を表現しています。

 

右側はチェコスロバキア共和国から寄贈されたモニュメントで「人生の喜び」

女性が子どもを差し上げ母親と子供の喜びを表しています。

 

 

 

平和記念像が、近づいてきました。

 

 

平和祈念像

平和公園の象徴するモニュメントの平和祈念像です。

 

制作者の北村西望(きたむらせいぼう)氏は長崎出身の彫刻家です。

 

この像は、長崎市民の平和への願い、神の愛と仏の慈悲を象徴する像として作られました。

 

具体的には、右手は天を差し「原爆の脅威」を表します。

すっと水平に伸ばした左手は、「平和」を表し、閉じている瞼は、「原爆犠牲者の冥福を祈る」思いを込めたそうです。

 

 

毎年8月9日には、この像の前で平和祈念式典が行われ、世界へ向けた平和宣言がなされます。

 

 

折鶴の塔(千羽鶴の塔)

日本の古典的な文化である折り鶴は、今では平和のシンボルとしても各国で折られているそうです。

 

原爆犠牲者の霊を慰め、二度とこの地球上に原爆のの惨禍を招くことがないように、と言う願いを込めて折られた鶴を掲げるために作られました。

 

平和の象徴である鶴が、この塔の先端で金色に輝いています。

 

 

さて、平和公園の展望台からは、浦上天主堂が見えます。

次に、私達は平和公園を出て、浦上天主堂に行きました。

 

 

浦上天主堂は、非常に大きい教会です。

 

が、やはり被爆して、昭和34(1959)年に再建されています。

 

先ほども書きましたが、浦上天主堂は、爆心地から北東約500メートルの位置にありました。

大きな天主堂が、原爆によりわずかな壁を残すのみで、崩れ落ちたのです。

 

 

 

私達が訪れたときは、ちょうど結婚式が行われていました。

 

浦上天主堂に保存されている「被爆マリア」は、天主堂の中に展示されているため撮影は禁止となっています。

 

 

 

天主堂の庭には聖人の石像があります。
首がない像や黒く焦げたあとが分かります。
どれも原爆によるものです。

 

教会の鐘

 

浦上天主堂の鐘は、主に祈りの時間を告げるほか、「喜びの鐘」や「葬送の鐘」などでも、鳴らされたとのこと。

 

戦前は、この付近では、祈りの時間を告げる鐘が鳴ると、家のなかでも外を歩いていても、畑仕事をしていても、その場で祈りをささげていた光景が広がっていたそうです。

 

この写真の鐘は、被爆した鐘の一部です。

昭和25(1950)年の河川改修のときに、石垣の中に埋められましたが、遺構をぜひ公開して欲しいという長崎市の依頼に答え、昭和46(1971)年に発掘され、このように原爆のすさまじさを伝える遺物のひとつとなりました。

 

 

今回、時間の関係で、資料館には行くことができませんでした。

 

しかし、この日見学した史跡だけでも、もう充分だと思いました。

頭の中が、なんだか飽和状態になったような…。

 

正直、あまりに凄惨すぎて、あまりにもつらそうで、悲しくなりました。

 

どんな感想を書いても、軽々しく思われて、文章にする言葉が見つかりません。

 

そのため、あれも書こう、これも書こう、と最初思ったのですが、結局、淡々としたレポートとなってしまいました。

 

 

 

今、世界は狂っていると思います。

ウクライナ戦争、スーダンミャンマー、台湾をめぐる中国、北朝鮮…。

 

この地球にいつ天罰が降りてもおかしくない…そのようにさえ思います。

 

唯一の被爆国である日本。

大きな声で不戦の訴えをする資格が充分にあると思いますが、国レベルでは、しっかり訴えているのでしょうか。

 

声高で訴えるには、色々としがらみもあるのでしょうが…。

 

どうか、トラブルは外交で、解決する努力をしてほしいと思います。

 

 

 

そして、いつの日か、

 

 

世界中の人が、みな仲良くなる日が来ますように。

世界中の子供たちが、幸せだと感じるような世の中になりますように。

 

 

 


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時は優しく流れて   中村由利子

 

引用:YouTubeより

 

 

 

今日も…日日是好日