泣いても笑っても日日是好日

人生は一期一会の連続。平凡な毎日でも、泣いても笑っても…

古都大宰府を歩く…大宰府政庁跡、岩屋城跡

 

 

いつもは、記事を書くのがとても楽しいのですが、最近スランプというか、パソコンを開く気にもなれず(尤もパソコンの調子もあまりよくない)、ご無沙汰してしまいました。

すみません。

 

で、遅ればせながら、やっと前回の続きを書き終えましたので投稿しますね。

 

 

前回はウォーキングをするために太宰府を訪れて、まず令和ゆかりの坂本八幡宮に行ったお話をしました。

 

gracedusoleil252525.hatenablog.com

 

 

今日はその続きのお話です。

 

本八幡宮から元来た道に戻り、次は大宰府政庁跡に行きました。

 

 

大宰府政庁とは、奈良~平安時代にかけて九州を治めた役所です。

また、外国使節の応対や、外国が攻めてきたときの防衛のための役割もはたしていました。

一番栄えていた時は、1000人もの役人がいたそうです。

 

 

大宰府政庁は、3回にわたって建て替えられていて、今は礎石が残っているだけです。

 

正直、広い原っぱに礎石がポンポンとあるだけの、何がなんだかさっぱり分からないところだったので、政庁跡を見た後に隣接している太宰府展示館に入りました。

 

太宰府展示館で展示物を見学していると、解説員の方が来て、

「分からないことがあったら、聞いてくださいね。」

と、言ってくださいました。

 

そこで、

「すべて、分かりません。」(←申し訳ない)

と言ったら、笑って展示室の入り口から順を追って、丁寧に説明して下さいました。

 

ここからは、写真と一緒にお話ししますね。

 

とは言うものの、先ほども書いたように大宰府政庁跡は広いし、礎石があるだけで高さがないので、写真でみても偏平で、分かりづらいかもしれません‥‥。


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大宰府政庁復元模型

大宰府展示館展示品から

 

瓦葺きの屋根に赤い柱。

美しいですね。

でも、この赤い色は…他の都城から想像した色で、赤い塗料が出土したわけではないそうです。

 

名称を書くと、

 

①南門

②西脇殿

③東脇殿

④広場

⑤正殿

 

これが、どこに相当するかと言うと、

 

① 南門跡。

② 西脇殿跡。


 


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➃ 広場跡。
正面の草むらが、⑤正殿あとでしょうか。

 


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どこに相当するかよくわからない築地あと。(苦笑)

 

どこら辺かよくわからない礎石。(あらぁ~)

 

築地跡と、礎石跡は、どの辺の写真か分からなくなったので、参考ということで。

すみません。

 

明治時代以降に作られた、大宰府政庁跡を示す石碑もあります。

 

そして、大宰府の町ですが、条坊制の町でした。

条坊制とは、京都の町並みみたい碁盤の目で区切られた町並みをいいます。


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引用:古都大宰府保存協会公式ホームページより

 

 

 

では、大宰府の街の規模は、どれくらいの規模だったのでしょう。

因みに平城京も、大宰府もモデルは、唐の長安です。


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大宰府展示館のキャプションより

 

黒で塗り潰されているところは、役所だと思われます。

 

大宰府は、「遠の朝廷」と言われるけど、街は小さいですね。

面積にして平城京の4分の1もありません。

 

更に、長安大宰府の約50倍、平城京の9倍の大きさ。

長安は、桁違いの大都市だったのでしょうね。

遣唐使は、その大きさ、賑やかさにど胆を抜かれたのではないでしょうか。

 

 

さて、大宰府展示館で、1時間みっちり講義を受けたあと、

「四王寺山の、岩屋城跡はすごく景色がいいんだよ。もっと、アピールしていいくらい。車なら行ってごらん。」

と言われました。

 

で、ウォーキングを一旦やめて、その代わり岩屋城跡の素晴らしい景色を見に行くことにしました。

 

 

 

岩屋城とは、四王寺山にあるお城です。

 

ときは安土桃山時代

 

鹿児島の島津氏が、九州を平定しようと北上してきました。

 

岩屋城を守るのは、大分に拠点を持っていた大友氏の武将高橋紹運(1548~1586)。

 

高橋紹運は、700人余りの兵で2万もの島津の兵を2ヶ月間惹き付けた猛将で、最後は全員討ち死にします。

 

一方、勝ったとはいえ、岩屋城の戦いでかなりの戦力を消耗した島津軍も、この8か月後、九州に出兵してきた豊臣秀吉(1537~1598)に降伏することとなります。

 

因みに、高橋紹運の長子が立花宗茂(1567~1643)で、後の柳川藩主となります。

 

福岡では、男勝りであった立花宗茂の奥さんの誾千代〈ぎんちよ〉(1569~1602)も有名で、大河ドラマを誘致しようという動きがあるんですよ!

 

それでは、岩屋城跡に行ってみましょう。

 

岩屋城跡は、駐車場がないので、展示館の解説員さんに教えてもらったとおり、少し道が広くなっているところに、車を止めました。

他の車は、ほとんど来ません。

 

 

この、階段を登っていきます。



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岩屋城址の石碑

 

 

 

確かに、ここからの眺めは見晴らしがいい。

なるほど、島津軍が攻めてきても、すぐに分かります。

 

 

 

 

東の宝満山から、南を経由させて西の方を写真でとってみました。

 

真ん中の山は霊山宝満山です。

 

 

左端の色のちょっと薄い円錐形のきれいな山は、先日書いた記事でちょっと触れた大根地山です。

(参照 ↓)

あれあれ、こんなところにこんなものが…娘と夫と日拝塚古墳 - 泣いても笑っても日日是好日

 

右端にぼうっと、遠くかすかに、耳縄連山(みのうれんざん)が見えます。

この写真では写っていませんが、耳納連山の西の端に高良山があります。

高良山には、高良玉垂神がまつられいる高良大社があります。

真ん中の青い屋根の建物は九州国立博物館です。

 

 

真ん中より、少し右手に基山がみえます。

白村江の戦い(663年)の後に作られた、古代の山城の基肄城(きいじょう)があったところです。

 

 

真ん中よりすこしだけ左よりの薄く見える山が福岡県で一番高い山である脊振山です。

 

昔は岩屋城跡から、海も見えたそうです。

 

参考までに、地図を載せますね。

 

①四王寺山

宝満山

➂大根地山

高良山

⑤基山

背振山

 

直線は、ざっとですが耳納連山。


Map-Itマップ・イットの地図より作図。

 

 

 

 

本当に、よい眺めです。

 

もっと、ゆっくりしたかったのですが、道路に止めている車のことも気になり、ささっと降りてきました。(笑)

 

 

このあと、太宰府天満宮まで歩きました…と言いたいところですが、もう、疲れ果てててしまった…。

 

という事で、この日の太宰府の旅?はこれでおしまい。

 

後日、改めてウォーキングに挑戦したいと思います!!

 

 

 

 

今日も…日日是好日

 

 

 

 

p.s.

 

梅雨末期のような大雨が各地で降っていますね。

 

大雨の地域にいらっしゃいました皆さんは、大丈夫でしたでしょうか。

 

皆さんが、ご無事でありますことと共に、被害が最小限でありますことを、心より願っております。