1. はじめに
東京オリンピックが、延期になっていますね。
来年は無事に開催されるのかなぁ?
で、話は飛びますが、オリンピックで日本人が金メダルを取れば、流されるのが「君が代」。
この「君が代」についてのルーツが福岡に関係がある、という話をちらっと思い出して、
つれづれに、ウイキペディアを駆使して、調べてみました。
すると、興味深い事が分かりましたので、紹介したいと思います。
(知っている人もいるかもしれないけれど)
まず、「君が代」の歌詞と意味をざっくり見てみましょう。
歌詞
君が代は 千代に八千代に さざれ石の
巌となりて 苔のむすまで
意味
君が治めている世の中が千年も、何千年も、小さな石がさざれ石の様に大きな石になり、苔が生えてくるくらいながく長く続いてほしい。
五・七・五・七・七の形式で、元は『古今和歌集』に所収されています。
尤も、「君が代は」のフレーズが、『古今和歌集』では「我君は」となっております。
『古今和歌集』といえば…
「百人一首」や、『土佐日記』で有名な紀貫之が編纂した勅撰和歌集ですね。
平安時代前期(10世紀前期)に編纂されました。
所収されている和歌は、当時の和歌だけでなく、奈良時代に編纂された『万葉集』(8世紀後半成立)に選ばれなかった古い歌もあります。
そして、この歌を詠んだ人については、「読人知らず」。
詠んだのはこの人でないか、と推定される人も幾人かいるそうですが、はっきりした事は分かっておりません。
3.「君が代」と福岡のかかわり
さて、この「君が代」。
地名等で、福岡にかかわりがあるのです。
- さざれ石の…細石(さざれいし)神社(福岡県糸島市)
盤長姫(イワナガヒメ)と妹の木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)が祭神。
- こけのむすまで…盤長姫は別名苔牟須売神(コケムスメ)という伝承があります。
因みに、細石神社の近くには、伊都国の王墓(弥生時代後期 1~3世紀)とされる平原遺跡があります。
ところで、この「君が代」の歌が、福岡市の志賀島にある志賀海神社で、「山誉め祭り」という神事の神楽歌として、伝わっているのをご存じでしょうか。
「山誉め祭り」の神楽歌
君が代は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
(中略)
志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良が崎に 鯛釣るおきな
意味は良くわからないのですが(すみません)、「君が代」と同じフレーズが出てきますね。
香椎とか、「君が代」 の歌詞に含まれない福岡市の地名も出てきます。
さらに、「君」ですが、「阿曇の君」と、はっきり名指ししていますね。
さて、志賀島にある志賀海神社は、海の神様である綿津見三神を祭神としていて、創建は不祥です。
しかし、古代の志賀島は海洋技術に長けていた阿曇族の拠点であり、現在の神主さんは、阿曇族の後裔であることから、志賀海神社の歴史は相当古いようです。
5.「君が代」の成立年代
志賀海神社の言い伝えによると、神功皇后(169~269)の新羅出兵の時には、現在の神主さんのご先祖の、阿曇磯良という人物が船を操るのに協力したそうです。
「山誉め祭り」とは、その新羅出兵の折に、対馬の豊浦で、志賀の海士が海の幸山の幸で、神功皇后をもてなした故事が由来となっています。
その時に奉納したのが、この「君が代~」の神楽歌。
(神功皇后って、伝説の人っぽいのにウイキペディアで生没年がはっきりしているのが不思議…笑)
伝説通りだと、この神楽歌は3世紀頃には、既に詠われていた事になります。
尤も、神功皇后はもっと後の時代の人という説もありますから、4世紀頃かもしれません…。
(個人的には、ウィキペディアより後の時代の人だと思っています。)
それにしても、「君が代」の起源は、平安時代どころか、奈良時代よりも、う~んと古い時代に遡るんですね。
6. 阿曇族と古代の福岡
現在の福岡市と糸島市の一部
福岡県
ところで、神楽歌から少なくとも3世紀頃の福岡市近辺は、阿曇族のホームグラウンドだった…と考えられます。(神功皇后の生没年がウイキペディアどおりなら。)
神功皇后を対馬でもてなしたという伝説から、対馬も…。
だから、伊都国の王墓とされる平原遺跡の被葬者は、阿曇族出身の王様かもしれませんね。
もっとも、伊都国の位置は諸説あるので、ここでは伊都国と言わないで、糸島半島にあった国と言った方がよさそうです。
そういえば、「漢委奴国王」の金印が、阿曇族の本拠地志賀島で発見されています。
金印は、『後漢書東夷伝』に
- 西暦の57年に倭の奴国の王様が、貢物を後漢の皇帝に送ったら、印綬をもらった。
と言う記述があり、この「漢委奴国王」がその印綬だ、と言われています。
金印の出土地から考えると、奴国については、阿曇族が王様であった確率が高そうですね。
尤も、奴国の正確な位置についても諸説ありますが。
もしかしたら、神功皇后をもてなした時に、自分たち阿曇族の長を「君が代~」と呼ぶような神楽歌を奉納したのだから、阿曇磯良たちは、神功皇后より勢力があったのかもしれません。
上から目線で、神功皇后の新羅出兵を手伝ってあげる…というような。
あらら、なんか小説でも書けそう…。
7. 結びにかえて
今日はつれづれなるままに、「君が代」から古代へ、想像力を逞しくしてみました。
私が生きているうちに研究が進んで、謎が解明したらいいなぁ。
でも、古代って、はっきりと分からないからこそ、ロマンを感じますね。
想像の余地がいっぱいあるし…。
ところで、福岡は古事記にゆかりの場所も、それなりにあるんですよ。
その話は、またの機会に。
古代に思いを馳せ、ロマンに浸る記事のつもりが、思いのほか長くなってしまいました。
長いお話、お読みいただきありがとうございました。
今日も…日日是好日。
p.s.
地図に文字を落とし込むのに、たいへん時間もかかり、苦戦しました。
もっと地名も入れたかったけど、もう無理…。
ふぅ…。
にもかかわらず、見づらい…。
トホホ…。
どうぞ、いたらないところは、目をつぶってくださいね。
少しずつフォトスケープの使い方を勉強しております…。
訂正
オリジナル…タイトル 「君が代」の歌詞から、遥かなる古代に思いを馳せる。
2020.3.1訂正…タイトル 「君が代」の歌詞から、遥かなる古代に思いを馳せる…志賀海神社と「君が代」